ビンゴ☆マキシマム Final

驚きを通り越して、あきれているのではないかと・・・

(あくまで、このブログを欠かさず読んでいる存在がいればの話)

文字通りFinalですので、今回で決着をつけるつもりです。そして趣味のブログでの文章ですので、ゆるい感覚でお付き合い、いただければ幸いです。

さて、今回のテーマは「可能性」です。ビンゴというワードがタイトルですので確率論めいた考察になります。

最近「~は可能ですか?」というフレーズを頻繁に耳にします。私の行動の範囲だけかもしれませんが、デジャヴか???というくらいの頻度で「Is it possible?」に遭遇するので運命のようなものさえ感じます。もちろん、お仕事上では笑顔で「可能ですよ」とお答えしますが、脳内ではものすごい情報量の処理の結果での返答であるわけです。

野球を例に話を進めます。打率3割の打者をピンチヒッターで打席に送り出すかどうかの場面を想像してください。打率3割ということは10回打席に立てば、7回はバッターアウトです。3回は塁に出て、場合によっては点が入るという設定です。

しかし、現実はピンチヒッターでの起用ですので、一打席だけの結果がどのようなものになるかが問われます。見逃しの3振かもしれませんし、犠牲フライかもしれません。最悪はゲッツーで満塁のチャンスを失うかもしれません。悪く考えればキリがありませんが、もちろん逆転満塁ホームランの可能性だってあります。

このような場面で監督はどのような判断基準で決断を下すかをシュミレーションしてみます。私は勘ピューター派であるのは前回の記事で考察した通りです。間違いなく、選手の顔をしげしげと眺め、目を覗き込んで判断するタイプです。

なぜか?現場には理屈では語れない情報で満ちているからです。それを拾い上げるのが仕事です。昔ながらの職人気質なのかもしれません。それで勝つかもしれませんし、負けるかもしれません。責任は問われるでしょうが、できるだけのことをやった結果であるので後悔はありません。

ここまではまあ、野球のお話です。ですが、人生での行動基準にするには納得の出来ない場面に遭遇することもあるでしょう。そんな時にどうしたら良いのかを考えます。

コロナ禍において仕事上チックンを4回しなければ職を失うといったケース。大人の都合でデータをちょこっと編集しないと利益が出ないばかりか、会社そのものが存続できないとか、個人として社会人として家庭人として役職や肩書き、その他もろもろで正義が揺らぎます。

一回こっきりの人生でどうしても勝たねばならない場面に確率は不要です。

もう一度、力を込めて言います。確立にはそれほどの力はありません。

人生の大切な場面で必要なのはまず、打席に立つ。そして振り逃げでもいいから、次につなげる覚悟を持つ。それのくり返しです。次があれば、その次もあります。大事なのは打席に立つ回数なのです。

もし、100回に1回当たるガチャがあるなら、100回やります。

1000回で1回のガチャでも同じです。回数マックスでやるだけが必勝の策なのです。

1万回なら、1万回やるまでです。分母が限りなく大きくなってゆきます。それがマキシマム理論の奥儀です。多くの人が打率を上げることを目指すでしょう。それも正解です。しかし打率3割でも優秀なのにそれ以上を求めるには無理が生じます。

降水確率0パーセントで実際に雨は降ります。ですが・・・連続で奇跡は起きません。

結果を必ず出せと命令されるならば、自然の摂理とは離れてゆくのが必然です。そのゆがみをいずれ回収しなければならない時期が来ます。それはもうすぐです。

仮にフォロアー10万人の人気ユーチューバーがちょっと失言や過去の不適切な行動が判明して炎上した際には応援が一気に批判に反転します。分母と分子が逆転する現象です。

一方、来る日も来る日も失敗続き。「これまで1度も勝利なし」といった馬が大人気となったりします。これも逆転現象です。

これからの時代は共感の時代になります。すごい人が求められるわけではありません。

分母のデカイ人がそのまま多くの人の共感を引き寄せるような気がするのです。

勝ち馬を探して勝率を上げるよりも、今日も明日も一生懸命走り続ける人が輝く

そんな世の中になることを願っています。

ビンゴ☆マキシマム(その8)

まだやるんですか?というコメントは今のところありません。というよりも、誰も読んでいないというところでしょう。

うん・・・いいんですよ。それで。

日々の制作も、このようなユルイ感覚で続けてゆくのが大切だと思っております。

すべては設定次第です。今回は「直感」についての補足を交えつつ、設定の大切さについて語ってみたいと思います。

前回の記事では人生の岐路に立たされた際にどうやって選択をするのか?あくまで、個人的な指標ではありますが、「直感」こそが重要なのだ!というところで終わりました。

勢いで書き上げたのはいいのですが、これだと誤解される方もいるだろうな・・・

というわけで、もう少し丁寧に「直感」について考察してゆきます。

勘とかひらめきといったニュアンスで捉えてしまうと、行き当たりばったりな気分で選んだだけのギャンブルだと受け取られてしまいかねませんが、そういう意味ではありません。

かといって、超自然的なサイキック能力とも分けて考えています。

理屈では説明するのは難しい。ですが膨大な過去の経験と記憶情報を何らかのプロセスで処理した上で解答がポンと訪れるものであると仮定します。ですから説明できないだけで根拠は十分あるし、これまで自分が歩んできた人生がいい加減なものでないのであれば、胸を張って主張しても問題はないと思っています。

もちろん、邪念をはらい自分の心と直感に身を委ねた上での選択であっても、望む結果が得られないこともあります。それでも、揺らぐことなく、「進んでゆくという覚悟」を織り込んだ上での選択をするという設定です。

過去に起きた出来事そのものを変えることは出来ませんが、設定を変更することで意味を変えることが可能です。

正しいか間違いか、成功か失敗か、勝ちか負けか

そんな価値観すらも相対的なものでしかないので、設定次第です。

もし、あなたが世界一のコレクターもしくは特定分野の専門家を目指しているとしましょう。(あくまで、仮に)レトルトカレーを極めんとするものであるのであれば、完全制覇は必須です。

東に旨いカレーがあると聞けば、馳せ参じ。西に微妙な評価のカレーが存在すると風の噂に聞き及べば、やはりこれも食せずにはいられない筈です。超絶不味いとなれば、これも当然レポート対象です。

そんなわけで、当たりもハズレも研究対象として捉えれば、究極的には等価値であるし、分母はデカイ程、素晴らしいという感覚です。「可能性を拾う」これこそがビンゴ☆マキシマムの本質です。

もし、あなたもフォーチュン・コレクターを目指すのならば、ビンゴ☆マキシマムは要チェックですぞ☆

ビンゴ☆マキシマム(その7)

前回は「根拠のある自信」の対を成すものとして「根拠のない自信」について触れて終わりました。信じる力の源となるべき根拠が欠落している状態でなぜか?自信がみなぎっているとか、意味不明です・・・・

「やれやれ、漫画の読みすぎだよ~」と笑い飛ばすのは簡単なんですがね。

例えば、「勝算は全くないけれども、逃げてはいけないと強く感じる場面」や「電撃に打たれたような運命的な出会い」など非論理的ではあるけれども否定のできない、こみ上げてくる激情があったり、なかったり、と・・・いろいろですが、皆さんはどうでしょうか。

「あの時、もし違う選択をしていたら・・・」と 過去の出来事のことを思い返し、フラッシュ・バックすることはないでしょうか。

もし、あの時・・・「自分の小さな心の声に従っていたら」と、つい自責の念にかられてしまったり、「あの時はあれが最善だったんだ。」と理論武装で塗り固めたりと、無駄に頑張るのはそろそろ止めにしたいなと思うこの頃です。

仕事上では「戦略で勝つ」とかウソぶいておりますが、正解なんて分からないのがまぁ、通常運転です。それでも、根拠は?と聞かれれば、「勘」ですよ。他者には理解してもらえないので「根拠なし」に該当してしまいますが、問題があるとすれば、この点だけです。

本人としては選択の根拠は直感です。

鍛えて叩き上げ、磨き上げた直感がわたしの根拠であると言わせていただきます。

ジョン・レノンの言葉です。

ぼくが5歳の時、母はこう言っていた。
「幸せこそ人生に必要なこと」。

学校へ行くと、将来の夢を尋ねられる。
ぼくは「Happy」と書いた。
みんなはちゃんと質問の意味を理解しろという。
だから、彼らに教えてあげたんだ。

「君たちは人生をわかってない」

わたしなりに幸せの定義を考えてみました。

「言葉」と「心」と「行動」が一致していること。

この条件を満たしているならば、少なくとも後悔はないと確信しています。

大切なことは「幸せになる」ではなく、「幸せである」こと。

そんな訳で、Don’t think,feel so Happy.

なのです。

ビンゴ☆マキシマム(その6)

ビンゴ☆マキシマム(その6)になります。

前回は世の常識の代表格である「等価交換」について考察しました。多くの方には何の話かさっぱり分からないっ!!!という反応だったかと勝手に想像しております。

そこで、今回はていねいに噛み砕いて、解説に専念することにします。

吹きガラスの授業において、ほとんどの生徒さんが楽しく作るを目標として設定します。この目標そのものには何の問題も発生しないのですが、これに技術力の向上が目標に加わると事態は一変します。どちらか一方だけであればいいのですが、これら2つのコンビネーションがどうも良くないように思います。

本人が自覚していないレベルの深層心理で「特別な何かを得るためには・・・・その対価として苦しい茨の道を歩まなければならない。」と思い込んでいるとします。この価値観が「等価交換の法則」として発動します。

ですので、ダイエットを例にするならば、厳しい食事制限や運動を一定期間、計画的に続ければ、ほどなくして減量に成功するでしょう。

ところが、徹底的にやり込んでいるうちはいいのですが、気が緩むと同じ振り幅かそれ以上の値で一気にリバウンドしてしまいます。当然と言えば、当然です。法則が発動しているのですから。

ここまでは、ご理解いただけるかと思います。ここから少しひねってみます。

因果関係を肯定的にしっかりと認識できると、法則は自分にとって好ましく発動します。

根拠のある自信」と言い換えると分かりやすいですね。

「これだけのことをやってきたのだから、負けるはずがない。」誰よりも自分は努力してきたという自負が強固な信念を構築します。そういう人は「自分を信じろ」という無責任なアドバイスにもたじろぐことなく、勝利を手にすることが出来るでしょう。

一方「根拠のない自信」に満ちた若者が「俺はまだ本気出してないだけ!」とか主張すると、反射的に「そんなに人生、甘くはないのよ。」と諭したくなるのが人情です。

さて、あるあるな事例でここまで語ってきましたが、ここから理論を飛躍させてみましょう。

何の裏付けもなく、科学的にも統計的にも明らかに達成が困難な状況であるにも関わらず、口元にはうっすらと笑みを浮かべ、「オラ、なんかワクワクしてきたぞー」とかいう人物がいたら、頭おかしい人って思うでしょうか。

リアルでは想像が難しいかもしれませんが、黄鬼の登場はこんな事例として創作してみました。

関わってはいけない、エキセントリックな人に映ってしまうのですが、私の2022年の目標はこんなイメージになります。

次回「根拠のない自信」について、詳しく語ってみたいと思います。

ビンゴ☆マキシマム(その5)

1年の抱負をブログとして発表するシリーズとしてスタートしましたが、いつしか世間のタブーに斬り込む意識高い系のヤバい人になってます。

一体誰に向けて書いているのか?謎の展開となっておりますが、しばしお付き合いいただけますと幸いです。(読んでる人いるのかな??)

答え合わせの時間が目前に迫ってきております。

これまで、当たり前だと思ってきた根本的な価値が前触れもなくいきなり崩壊するとしましょう。本日をもって、江戸幕府は終了しまぁーす。的な発表があるとします。(あくまで仮の設定です。)

「侍の皆様、これまでお疲れ様でした。明日から刀は必要ありません。ていうか・・・没収です。帯刀して町をうろついたりしたら、捕縛対象ですので、よろしく!」

こんなイメージです。

2022年、年明け早々にコロナ・パンデミックが世界同時で絶賛拡散中ですので、ここから何に転じるかは神のみぞ知るといったところでしょうか。

強い信念を持って生きてきたと自負されている方も、世の中の流れに乗ってなんとなく浮世を渡ってきたという方も、ここからが本番です。

何を言いたいのかさっぱり、分からん!!ぷんぷん(怒)というお怒りの声もごもっともですので・・・・

それでは本題に入ります。

今回は「等価交換の法則」を斬ります。「何かを得るためにはそれと同等の代価を支払う必要がある」というやつですね。「ご恩と奉公」でも良いですし、対価を支払うという観点では資本主義そのものが等価交換の法則に沿って運営されています。

「成功するためには自分の大切なものを捨てなければならない。」

映画や小説、テレビ番組や教科書に載っている物語教材も基本的にこのガイドライン上にあると言っていいかと思います。

「泣いた赤鬼」という児童文学をご存知の方も多いでしょう。

人間と仲良く暮らしてゆきたいけど、なかなか上手くゆかない赤鬼に青鬼はこう諭します。

「なにか、ひとつの、めぼしいことをやりとげるには、きっと、どこかで、いたい思いか、損をしなくちゃならないさ。だれかが、ぎせいに、身がわりに、なるのでなくちゃ、できないさ。」

ふもとの村で暴れる青鬼を赤鬼がやっつけるという筋書きで人間と仲良くなることができるのですが、その代償に青鬼が慣れ親しんだ山を離れて旅に出るというストーリーです。

これを小学生低学年で読まされるとは、トラウマ必至のイベント!これを「尊い犠牲」や「まごころ」と呼んでいいのか、はなはだ疑問です。

わたしが作者であるならば、新たに神キャラを投入して

「嗤う黄鬼」なんてタイトルで青鬼の作戦にダメ出しを叩きつけてやります。

「オイっ!青鬼!!!俺達をみくびってもらっちゃあぁこまるぜよ。お前一人が犠牲になれば、万事解決とか、ざけんなよ!!」ビシいィィ(キメ顔)

青鬼と赤鬼は互いの顔を見合わせて、「俺達??」という言葉に呆気にとられてしまいました。これまで、黄鬼は鬼達の間でも変わり者として知られ、誰とも行動を共にしたことがなかったからです。

「それでも、行くというなら、俺を倒してからにするんだな。」

黄鬼の迫力に押されて、二人は何も言い返すことが出来ませんでした。

「お前の持ち味を生かすんだ。鏡の前でポーズを決めてみな。お前の筋肉が何か語りかけてこねぇか?」

「いいか何度でも言うぜ。筋肉は正義だっ!強さと美しさに理屈はいらねぇ。」

「俺達3人でグレートなぁパフォーマンスを村人達に見せてやるんだ!そして、最後のキメ台詞はこうだ。」

黄鬼はおもむろに、紙袋の中から衣装一式を取り出し、声高らかに叫びました。

Don’t think, feel so good!   後楽園できみと握手!!待ってるぜ!

つづきはあります。(その6)に続く

ビンゴ☆マキシマム(その4)

2022年 わたしの個人的な心構えを勝手に語るシリーズ(その4)です。

2021年がそうであったように気を抜くと1年、365日があっという間にすり抜け過ぎ去ってゆきます。

決して手を抜いているわけではありません。毎日を必死にやりくりしているだけで

いつしか、移ろい行く円環のループに取り込まれてしまいます。

まだ正気を保っている今のうちにリアルな現実を紡いでゆきたいと思っています。

そこで、とてもデリケートな話題になりますが・・・・今回は「お金」について語ります。夢や希望を阻む最大の壁が金だ!!と断言してしまっても、異論は少ないかと思います。

事実、「金銭問題」もしくは「人間関係」どちらか一方でも解き放たれれば、多くの人が幸せを感じることでしょう。

というわけで、今回も謎理論を展開して、このお金にまつわるしがらみについて考察してゆきます。

以前、吹きガラスの技術について説明する際に実験としてこんな質問をしてみました。

「楽しいことは良いことだ。」YES or NO

「お金がすべてではない。」YES or NO

こんな感じです。

ほとんどの生徒さんが顔色を変え、どうしてこんな嫌がらせをするのか?吹きガラスと関連性がない。問題をすり替えるな。と気分を害してしまう結果となってしまいました。

私としては大いに反省をすることとなりましたが、メッセージとしてはこうです。

目的と手段が入れ替わっていませんか?

目的が達成されるために必要な手段は複数あったほうが良いですし、そもそも最適解を導き出すための条件は常に変動しているため、唯一の手段は局所的にしか確定できません。

ですから、最適化かつ最大化しなければならないのは、手段ではなくゴール設定なのです。

自分にとっての最高の生き方とは、夢のような理想の人生はどういったものなのか

どうするべきかではなく、最も重要なのはどうありたいかなのです。

近い将来にベーシック・インカムが導入され、衣食住が約束されて、生きるために稼ぐ必要がない世界が訪れたとしたら、どうでしょうか。

想像してみましょう。磨り減るまで頑張る必要はもう、ありません。お金のために上司の顔色をうかがう事はしなくていいし、自分の気持ちに正直に生きてゆけます。もし、そんな世の中になったら、お金で人を動かすことが難しくなります。

信用と友好的な関係、YOUいいね!!の数が人を動かす力となるでしょう。

そんな時代がもうすぐやって来るかもしれません。

ビンゴ☆マキシマム(その3)

2022年の抱負を語るシリーズその3です。

シリーズ1の冒頭では・・・まもなく、世界は「大きな転換期」を迎えるだろうという旨をさらっと書かせていただきました。こちらについては具体的な詳細や根拠については全く触れておりませんので、疑問を持たれている方もいらっしゃるかと思います。

しかしながら、当ブログでは多くを語らずに今後訪れるだろう世界の主観的考察に留めておきたいと思います。なぜならば、その全容は急がずとも公式な場で発表され、誰もが知ることとなるだろうからです。もしかしたら、専門分野の責任者であれば、すでにご存知かもしれません。守秘義務があるので、今はまだ公にできない。そんなスケールのお話です。

さて、今回はマキシマムの意図するところを、もう少し語ってみたいと思います。

最大多数の最大幸福」コロナ禍では特にこのような考え方が正義とされています。最も多くの人々に最大の幸福をもたらすためには少数の犠牲は致し方ないというものです。

メリットがデメリットを上回るため」報道番組で繰り返し耳にしたフレーズです。

このような物言いで、我々はこれまで何度も騙されてきました。

人の為と書いて偽りと読みます。

我慢はいづれ限界を迎えます。誰も幸せにはしません。

求める最大値は最大公約数ではなく、最大公倍数であるべきなのです。

それがマキシマムの意図する響きです。

それがもし、少数であったとしても、全体のために切り捨てられる者がいる事実が隠蔽され、耳障りの良い捏造で塗り固められた世界が「許容誤差の範囲」で正しいというのであれば、わたしは異端者で結構! 

それゆえにわたしはミニマムではなくマキシマムを主張いたします。

その4に続きます。

ビンゴ☆マキシマム(その2)

明けましておめでとうございます。

2022年が始まりました。これまでのところ、非常に穏やかな日差しに恵まれて、平穏無事な祝日を過ごしております。

さて、シリーズ2回目をお届けします。例年、お正月第1回目のブログでその年の心がけを標語として発表をしております。ちなみに2022年は「ビンゴ☆マキシマム」としました。それを記事のタイトルにさせていただいております。

マキシマムとは?あまり聞きなれない言葉かもしれません。ミニマムの反対語「極大値」くらいに捉えていただければ幸いです。近年はコロナ禍も影響もあり、余分なものを削ぎ落とし自分のライフスタイルや人間関係を見直すことが大切・・・みたいな論調が主流のような気がします。いわゆる「断捨離」ですね。

そんな流れに一石を投じたいという趣旨で考察してゆきます。

自分に向き合うことは決して悪いことではありませんし、自分探しをテーマにした書籍も多数出版されています。そこに異を唱えることは多くの方の気分を害する恐れもあるのですが、そこは誤解されることを承知で慎重に進めさせていただきます。

何年か前に[let it go](ありのままに)が流行ったときに同じような違和感を感じて記事にしたことがあります。具体的な解決策を模索することなく、手放すとはいかに?

現在、大切なものを切り崩さなければ存続することすら困難な業種が多くあるのが実情です。そんな中、苦渋の決断が迫られております。

そこで敢えて言わせていただきたいのです。「捨てて得る」が最善ではないのだと。

 「無責任なことを言ってお前に責任が取れるのか!」という批判が聞こえてきそうですが、そんなことを主張する方々に逆にお聞きしたい。

自分が過去に挫折した理由を正当化するために、他者の可能性を摘み取ることに罪の意識を感じないのだろうか?

大谷選手が2刀流のスタイルを貫いてメジャーリーグに挑戦した時にどれ程の人が気持ちよく背中を押してあげることができただろうか。その後、成功したのちに手のひらを返した専門家は謝罪したのだろうか。

二兎を追い続ける者だけが、二兎を得る。

わたしはそんな人でありたい。

ビンゴ☆マキシマム(その1)

お久しぶりでございます。

気が付けば、2021年もあと数時間で幕を降ろそうとしております。本当にあっという間でした。おかげさまで今年も無事に終えることが出来ました。

多くのお客様と取引先の皆様のお力添えがあってこそと感謝しております。本当にありがとうございました。

振り返ると2019年12月から発生したコロナ禍も早2年になろうとしております。これまでは「健康」を取るか「経済」を取るかの2択を迫られる状況でした。

近頃はSDGs(持続可能な開発目標)やワクチンパスポートの導入、さらに2022年1月1日に発効する地域的な包括的経済連携(RCEP)協定などが目白押しで設定されています。政府も大手メディアも、これらについては十分な説明をすることなく、一つの明確な方向に水面下で駒を進めています。

このままでは、国民に残された選択肢は近い将来、

実質ただ一つとなることでしょう。

しかし、ご安心ください。そのようなことにはなりません。

今は全く説得力のない「たわごと」に聞こえるかもしれませんが、2022年に世界は劇的な転換期を迎えます。本当の豊かさや多種多様な選択肢を実感できる人生を誰もが生きられるようになります。

頭おかしい人に映るだろうな・・・と自覚しておりますので、これまで沈黙しておりましたが、そろそろ頃合いかと思った次第です。

「ビンゴ☆マキシマム」という謎理論については数回に分けて描いてゆきたいと思います。

それでは、良いお年を。

きらり婚のススメ

ブライダル制作教室を受講していただいた方からウエディング会場の様子を画像で送っていただきました。

あまりにも素敵なお話なのでご紹介したいと思います。

体験制作では結婚式に参加するすべての人に箸置きをそして、新郎新婦のご両親にはグラスをそれぞれ制作しました。今回のウエディングではドレスコードというものが特別に設定されていまして、参加者は服装のどこかでデニム生地を身にまとうことが条件とされています。

グラスと箸置きもデニムのイメージに合わせて装飾されています。

コロナ禍では大きな会場で大人数を集めての壮大なパーティーを企画することはできませんが、親しい友達と親族だけでのささやかな・・・そして、心温まる結婚式はこれからのスタンダードになるような気がします。

高級な食材だけなら、ネットで簡単にお取り寄せできる時代になりました。一方で、親しい人々との距離が制限されてステイ・ホームが随分と長い期間続いております。心にもデイスタンスが発生しないようにしたいものです。

そんな時期だからこそ、こうした工夫を凝らした自分らしい結婚式はぜひとも「キラリ婚」として定着していって欲しいものです。

これまでも、お客様とは消費者と生産者という関係だけではなく、制作のお手伝いをする協同制作者としての立場で接してきましたが、今回のブライダル制作では特に我々が目指す工房運営の方向性を表している事例として、記憶に残るものとなりました。

お二人の未来が素晴らしいものでありますようお祈りしております。