天才キラーズ

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世の中には努力では埋められない領域がある

という結論に至るまでにどれ程の年月が必要だったでしょうか。

自分の能力を客観的に評価しようと努力するほど、そして知識と経験が増すほどに、どうしても自己評価は低いものになってしまいがちです。(ダニング=クルーガー効果)

自分自身が誰よりも正確に結果に至るまでのプロセスを把握しているからこその認識なのだと思います。

もちろん、異論も多数あるかと思いますが、多様性が認められた現代社会であるからこそ、敢えてここからスタートすることで見えてくるものがあるかと思います。

一方、天才と呼ばれる人たちは独特な観点と豊かな創造性で大多数の一般人が求める過程をすっ飛ばして、あっさりと成果を出してしまいます。不幸なケースだと周囲の人の理解が得られず、変人扱いされてしまうこともあるかもしれません

しかし、近年では本来、天才と呼ばれるべき人材の神秘性と希少性が失われつつあるように個人的には感じています。

アスリートであれば、  

どんなに天性の才に恵まれていても、どんなにすごい偉業を達成しても日常的にメディアで繰り返し報道され、ネット上では不特定多数のコミュニティーで幾度となく議論されることで体系化されてしまいます

さらには結果に至るまでの波乱万丈のストーリーと心情がSNSなどで克明に発信されることで共感性を獲得し、だれもが納得する裏打ちのあるものとして受け入れられてしまいます。

これでは「すごい人ではあっても天才ではなくなってしまうのではないでしょうか。

そして、これに人工知能が加わることで、天才は近い将来には絶滅危惧種になってしまうことが予想されます。

勝手な妄想でシュミレーションしますと

コンピューターの超高速「情報処理能力」とAIスピーカーや画像認識技術を通して人々の会話&情報を双方向でインプット、アウトプットできる「集合知」

そして、各界の達人や職人の動きを正確にトレースできる「匠の技」としてのロボットアーム、それらすべてが合体すると・・・・

もはや個人では到底太刀打ちできない人智を超えたスーパー・サイヤ人みたいな存在が降臨してしまうでしょう。

人間の価値って・・・どうなっちゃうの??

とちょっぴり不安になってしまいます。

しかし、敢えてここで「オラ、なんだかワクワクしてきたっぞ」と言わせていただきたい。

自分は決してすごい人ではないし、創造性や共感性そして再現性をもAIに取られてしまってもそれでも凡人として楽しく愉快に生きていけるがあります。

それは自己表現」が優位性を発揮する優しい世界です。

合理性や利便性から解き放たれた「はんどメイドの非日常空間で・あります。

いらっしゃいませ~♪

ヘタクソでも、拙い技術でも子供でも大人でも全く問題ありません。

天才がいなくなったのちにはグレートな凡人達のパラダイスを構築できるのです。

さあ、ジャイアン・リサイタルの宴を開催いたしましょう。

観客であり、ステージにも上がるのはもちろん

あなたです。

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